能“井筒”から考える自己基盤

あれやこれやな日々

こんにちは、こなつです。
前回に引き続き、能の話です。

能の世界観と自己基盤について。

ちょっと(かなり?)マニアックですが、お付き合いいただけると嬉しいです。

先月佐渡で見た能の演目が井筒でした。
実は、井筒観ながら、猛烈な違和感。。

能って、見終わった後に、モヤモヤするとか、どういうこと?と疑問が残るものがけっこうあります。
井筒もめちゃくちゃ変な違和感が残りました。

でも、これ、世阿弥的に傑作らしいんですよね。
そこで、何に違和感を感じたのか、どの辺が自己基盤に通ずると思ったのか?について掘り下げてみます。

井筒とは

  • 前半
    旅の僧が旅先の在原業平ゆかりの地で、里女と出会う。
    里女は、在原業平とその妻紀有常(きのありつね)の娘との恋物語を僧に語る。
    (いろいろあったけど、幸せでした、的な話。←ざっくりすぎるやろ。)
  • 後半
    実は、その里女は在原業平の妻の霊であった。
    在原業平の妻の霊は、夫の装束を身にまと、舞い踊る。
    そして水鏡に移った自分と夫の面影を重ね、姿を消す。
能・演目事典:井筒:あらすじ・みどころ
the能ドットコムの演目事典では能の演目「井筒」のあらすじとみどころを解説・紹介。プリントできる演目ストーリーの現代語訳(英文対訳付)も公開しています。

私の違和感

言動の不一致

登場人物(在原業平の妻)のセリフと、行動が全く一致していない。ところです。

前半での昔語りのセリフだけを見ると、「いろいろあったけど幸せでした」という話です。

でも、この世に霊として残っている、、
ということは、残しているもの、未消化な感情があるから未だこの世に残っているわけです。(未完了の感情)

後半で、夫のコスプレをしながら(ビックリ)、昔話を交えつつ、夫の面影と自分を重ねて、姿を消します。

在原業平は光源氏のモデルの1人とも言われるようなプレイボーイで、主人公である妻もいろいろな思いがあったようです。

口では何だかんだで幸せと言っていて、それもそうなんだろうけど、結局、めっちゃ未完了残ってたんやん!!
だから、霊として出てきたんじゃないの?
とか思ったわけですね。

そう、言葉と行動が一致していない、ことってすごく違和感が残るんですよね
限られた時間の演目で見ると、その違和感が引き立ちます。

でもきっと私は、無意識の言動の不一致をたくさん重ねている気がする。
その重なりが大きいことが、自分自身の不安定さを引き起こすんじゃないでしょうか。
今やっている統合性みたいなものに通ずる気がします。

そもそも能は自己基盤で言う未完了の世界?

自己基盤に取り組んで3年、その目線で能を観ると、能って、The 自己基盤の未完了の世界だなと思いました。
完了しなかった思い(未完了)によって、姿を変えてこの世に残った登場人物が、その思いを語って(完了させて)姿を消す。
まさに、未完了の完了。

完了させられなかった人間の思いや感情は、作品としてに奥行きを増してくれるかもしれない。
でも、私たちの人生は、やっぱり未完了は完了させていくことが幸せにつながると思う。

今回、少しマニアックだったかもしれません(;^_^A
どなたか、能と自己基盤語りしませんか~

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