マルタとマリアのお話し(ルカによる福音書)

コーチングな日々
ジーどん
ジーどん

クリスチャンだっけ?

違うよ~
むかーーし学校に行ってたとき聞いたお話しだよ!

内省と昨日の未完了の講座で頭の中が嵐です。
ちょっと落ち着かないから、全然違う話しを書くね。

昔学んだ聖書「マルタとマリアのお話し」の謎

むかーしむかし、私は中学・高校とカトリックの学校に通っていました。
そこでは、宗教の時間があって、聖書を学んだんだけど、当時、納得できない、というかなんで??と思った話がありました。
授業内容はほとんど忘れたけど、その話だけは不思議だったので覚えていました。
当時、授業の中でどういう説明を受けたのかも忘れました(;^_^A
また、この話に正しい答えや解釈があるのかどうかも分かりません。

でも、数年前、ふとした拍子に、こういう解釈で捉えようかなと思い出したので、それを書いてみます。

まず、

マルタとマリアは、こんなお話しです。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。
すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ルカによる福音書 10章42節

この話を読んで、皆さんは、どう思いましたか?

当時(中高生)の私の感想

「なんで??マルタ注意されたん??」
「マルタ可哀そう。。マリアはずるい。怒って&ちくって当然では?なんで、イエス様はマルタを注意するんだろう??}

と不思議すぎて、全く納得できませんでした。

マルタ側の立ち位置で考えていたわけですね。
(マリア側だと、そもそもこの状況に気がついていない可能性もあるし。)

その目線は10代、20代と変わらないものでした。(ていうか忘れてたけど。)

30代のある日思い出した

月日が流れ、、30代になったある日、ふとこの話を思い出したのです。
そこで、選択の問題のことを言っているのかな、と思ったのです。

選択の問題かもしれない

全ての行動は、自分で選んでいるということです。

イエス一行を迎えるために、一生懸命働いたのはマルタの選択ですよね。もちろん義務感でやったのかもしれないし、100%やりたかったか分からないけど、でも、その行為を選択したわけです。

そして、イエスの話を聞きたくて、座ってイエスの話を聞き入ったのはマリアの選択ですよね。

全ての行為は自分で選んでいるわけです。
マルタは自ら選んで、もてなすために働いて、マリアは自ら選んで座ってイエスの話を聞いていた。
ただ、それだけのこと。

だから、マリアが選んだ行為を変えるようにマルタ強制することは、本来はおかしいわけです。

マリアが羨ましいなら、マルタは一緒に座って話を聞いても良かったのかもしれません。
そしたら、誰が仕事をするんだ?となったら、2人で、またはイエス一行と一緒に考えても良かったのかもしれなせん。

選択の問題から考えてみると、この話の感じ方も少し変わってきました。

30代になってから、自分の行為は結局全て自分で選んでいるんだな、と思うようになったから、こういう見方をするようになったんだと思います。

でもね、でもね、
やっぱり私はイエスにはマルタの思いに寄り添ってあげてもらいたかったな、と思うのです。
マルタの一生懸命さを承認してあげて欲しかったなと思うのです。

40歳になってコーチングを学んだ私はそう思うようになりました。

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